写真という言葉はカメラの楽しさを制限する
カメラで撮った絵のことを写真と呼びます、真を写すで「写真」。
この写真っていう言葉、撮影の楽しさに制限をかける言葉で使いたくないなと思うわけです。だって、別に真を写すだけが撮影じゃない。目の前の被写体から受けたインスピレーションを表現するためならいろんな手を尽くしたっていいと思っています。
フィルムからデジタルに変わることによって、今まではできなかった表現ができるようになりました。例えば、特定の色だけを残してみるとか。
例えばホワイトバランスをあえてずらして全体に色を被せたっていい、それでより魅力的な世界が表現されるなら。
それに気づくまでは撮影を楽しむっていう考えが浮かばなかった。自分はきっかけがあって幸運にも撮影を真を写すから脱却して楽しむことに気づけましたが、そのきっかけがなかったら今でも真を写すことに満足していたかもしれません。それって写真とかいう名前で呼ぶからっていうのもあるかと思うんですよ。
いろんな表現ができるようになっているのに「写真」を撮ってるだけの人がたくさんいるかと思うともったいない。写真っていう言葉は罪深いなと感じます。
Photographyは写真じゃない?
Photographyは「photon」と「graphy」、つまり「光」と「描く」がくっついた言葉です。光を通して絵を描く、これこそカメラを使った楽しみをしっかりと表現した言葉だと思います。なぜPhotographyを写真って訳しちゃったんだよと思って写真という言葉の語源とか由来を調べてみたら、何と写真はPhotographyのことじゃなかったらしいんですよ。
写真は元々、肖像画のことを表していたようです。カメラによる記録ができる前に名のある人の姿を記録する手段のことを写真と呼んでいたようです。
という事は、Photographyの日本語訳って無いってことになります。本来なら「光画」とかって訳すのがふさわしいのかなと思いますが、それも今さらなのでカメラで撮影することをPhotographyって呼ぶようにならないかなと。写真なんて表現する人の考えを束縛する言葉は死語になってほしい。
そして、一人でも多くの人が撮影の楽しさ、「写真」だけじゃない表現の面白さに気づいてPhotographyの文化が失われないようになってほしいなと思います。
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